ゆずれない事が頑固の始まりになる。それは良い引き金になる場合もあれば悪い引き金になる場合もある。僕の場合大抵は後者になる。良かれと思いしたことでバランスが崩れ相手を消沈させてしまう。例えばあいまいな約束を守れなかったりする(主に時間だが)。「この位なら大丈夫だ」と思ったことでズレが大きな溝となり相手を怒らせてしまったり、勝手に相手を信頼してしまい相手との綱の弱さが明白になったりすることもある。自分が強く引きすぎれば相手が引きずられその綱は傷んでしまう。
 
だかその前に「何かあった」と言うことを知ってほしいと思うことはきっとわがままなのだろう。自分の都合である。特にこれこれがあってという様な理由も伝える勇気がない僕は黙ったままの冷たい氷柱である。触れるときには尖った槍のように相手に刺さってしまうのだ。何故言えないのかは分からない。それはきっと言い訳と捉えられるからでもあるし、昔から言い訳をしてきたからだろう。またこうやって言葉にするのも言い訳の一種なのだから。自分を守るために必死なのか。器の小さな男だなと我ながら思う。
 
 
「為に」というのもだらしの無いことだ。それは期待であり、欲望である気がする。為にと言う様な何も見返りを望まない行動がなかなか無いように。例えばエレベーターで開くのボタンを押し続け、階数を聞きボタンを押し、先に他の乗員をおろし自分は一番最後に降りたとしよう。すると僕らは礼儀として感謝の言葉を少なくとも聞きたがるだろう。「ありがとう」の一言を。それは期待だ。
 
そしてそれは肥大化する。関係が深くなればなるほど当たり前になることの中で特別な期待を産むのだ。それは当たり前を喰い散らかし惨めな期待になってしまうのである。
 
まさに「為に」とは期待への餌の一つなのだ。だから期待しない。為にと思わない。それが僕らの麻痺した喝采を再び蘇らせてくれるはずだから。そして決して忘れてはいけないのが許し。
 
いけない事への許しではなく、こんな僕を許してほしいと期待する日々である。これもまた言い訳なのかもしれない。そして誰が為にと言うならばそれは僕らが為にと答えたい。
 
 
 

病にて根の行く先


病院に行く機会、特に大きな病院に行くことはとても少なく亡くなった祖父が入院していた時に行ったきりそれから訪れた記憶がない。大型病院は少なくともその時以来いってないだろう。胃腸が弱い僕は消化器系の小さな病院へ行くことくらいしかない。ましてや入院だなんた大袈裟な病気にかかったこともない。だから病院とは治療よりも死への扉のようなものに感じてしまう。少なくともそう思っている人の方が多いのではないだろうか。映画やドラマでも死へのシンボルとして位置付けされていることの方が多いのも確かだろう。健康ではないことは死への第一歩なのである。


そう改めて思えたのも先日お見舞いに行ったからだである。特にお年寄りの友人がいる訳ではないので同年代の友人だ。友達伝いに彼が入院しているときいて慌てて連絡をとった。自ら「入院しているのでお見舞いに来てください」なんて言うやつはいないから彼からも特に連絡はなかった。「なんで連絡くれないんだよ」と彼に言ってしまったが、よく考えると当たり前に自分の弱いところを見せたいやつがいないように自分の弱みを連絡するやつなんてのもいないのだろう。

 

 

彼は9階の部屋に収容されており大きな窓からは東京タワーに六本木ヒルズを拝むことがでた。彼の一人暮らしのアパートよりもぐんと景色がよく「こここに引っ越しちゃえば」なんて喉元まで出かけたが言うことができなかった。自分でグッと押し殺したのか、遠慮したのか、気を使ったのか。年末から年越しも一人で入院していると教えてくれた彼の目に寂しさが少しだけ見えた気がした。

 


僕は死ぬような病気じゃなくてよかったと伝えた。すると彼は「死ぬようなら連絡するよ」と。そんな八重歯を光らせて言われても悲しいことを言われていることにかわりはないのだから。悲しいいことを明るく、楽しいことを暗く言われてもその根の部分はかわらない。だから隠すことのできない仮面をかぶる必要はないのではないかと僕は思った。

 

入院した彼が気づいたことと言えば「一人暮らしにおいての生活観、年をとると話が長くなること、床から離れているテーブルの良さ、下界の食べ物の美味しさ」なのであった。

 

 

 

 

いちご畑は火事

なんだって雪の降る夜はロマンティックにみえるもんだと、誰かが教えてくれたわけじゃないのにそう思うのは何故かしら。正月の時期をずらして実家に帰った。寝転んでても朝昼晩飯はでるし、買いに行かなくとも酒はある。あたたかいこたつに猫のようやうずくまる我が家の犬っころ。心配することはなにもない、育った家で自分の帰れる場所があると言うこと。だが決してそこへ帰らなければならいと言う訳ではない。

弟は執拗に地元へ帰りたがり、兄は執拗にどこかへ行きたがり同じ血を引いたとて似ているのは下らないことで競い合えるところだけ。実家に帰る度に違う女を連れてくるのが弟、一度も連れて来たことがないのが兄。ちゃんと働いているのが弟でちゃんとは働いてないのが兄。競馬にお金をかけるのが弟でお酒をひっかけるのが得意なのが兄。お年玉をあげるのは弟、妹に貧乏呼ばわりされるのが兄。

林檎のようなに真っ赤にした頬にくりくりの瞳を光らせていた彼は火の中に飛び入り水をかけるたくましい男になっていた。弟は弟なのに何故か大人になってしまった彼に感じる違和感は素敵なことなのだと思う。女との付き合い方、金の使い方、僕らや大人と変わらないこともするわけだ。そう考えたとすると僕らはいつから大人になるかと言うと結局他人の目で大人になるのかしもれない、また大人になる事ができないのかもしれない。

 

火事現場とは悲惨なものだ。だが弟はこう教えてくれた「炎に包まれた畑の匂いは甘かった」と。

 

当事者と第三者の感想とはいつも対極のようなところにある。彼方から放たれた言葉は彗星になって僕らの暗い夜空に白い尾を引きその美しさを示してくれる。残酷なことがの方が美しい時もあるのかもしれない。弟は素直だ。

 

 

敵を信じ使命を疑え


隣には君が居たか。シュンが寝ている。彼とは特にコレと言ったハプニングがあったわけではない。下の名前が一緒なのでお互い「シュン」と呼び合い会話をしていると周りの友人達が不思議そうな顔をする。自分の名前を呼ぶシチュエーションはおもしろい。優しく呼んでみたり、強く呼んでみたり名前を呼ぶことの意識が強くなる。他人の名前を呼ぶこと以上に自意識が高くなる。まるでもう一人の自分がいるみたい。自分で自分を傷つけたがる人がいないように、どうしても彼には特別な何かを感じ心のどこかで特別な扱いをしてしまう。兄弟のような双子のような親戚のような。けれど彼は沖縄出身だし、年齢も四五離れている。共通点と言えば煙草と大酒飲みくらいだろう。名前が同じだけでこれほどにも親近感がわくのはすごいことだと思う。(ただし頼ってはいけない)


けれど彼との初めての出会いはあまりよくない物であった。よく飲みにいくゴールデン街アスタリスクであったのが初めてだ。その夜は同居人が店番だったためアスタリスクへ軽く飲みに行くことにした。行ってみると彼がすでにお酒をひっかけておりいい気分になっていた。「こちらシュン君です」と同居人から紹介された。「同じ名前ですね」なんて言った気がする。大抵初めて会う人の印象がよくない僕にとって彼も同様、いやそれ以上に最悪だった気がする。嘘か本当か分からないような大きな笑い声で「嘘っぽい」というような印象があった。見栄張りなのか、お酒を振舞ったりなんのアピールなのか右手には絶えずグラスが握ってあった。


アスタリスクを後に他のバーへ飲みに行くことにした。五番街のButiという山口のお酒を扱うお店。ママのチエミさんがこれまた美人である。綺麗なアッシュ色の胸下まである長い髪にほっそりとした細い腕にはいつも謎のブレスレットをつけている。去年の冬彼女とは前野健太の「友達じゃがまんできない」や渡辺真知子の「たかが恋」なんかを聞いていた気がする。世代を超えた恋話は何よりも距離を縮めてくれる。それにお酒。彼女は僕にとってのゴールデン街の 母さんのような姉さんのような存在でもある。Butiは僕の恋愛倉庫とでも言えようか。恋の話は全てこの店に置いてきている。店にとっては迷惑な話である。その夜も今きになる人の話をしたような気がする。


何杯か飲んでアスタリスクへ戻ることにした。チエミさんはいつも「シュ〜ンもう行っちゃうの?」と言ってくれるから嬉しい。なんだかまだ行かないでくれと言われているようだ。


お店に戻る途中の路地裏でうずくまっている人がいた。お酒を飲む町、沢山のんで気持ち悪くなってしまう人がいるんなて日常のこの町で酔っ払いを気にとめる人なんてあまりいない。足早に酔っ払いを横目にした時である。そこにうずくまる背中の向こう側には見覚えのある顔。それはあのシュンであったのだ!


その時僕は『勝った!』と何も争いをしていない彼に対してそう思ってしまった。なにも勝ち負けではない何かに勝敗を求めてしまうの何故だろう。だが確かにその時の高揚感よ優越感があった。だが別に鬼ではないので「大丈夫か」と声をかけた。気持ちわるそうに嗚咽する彼の背中をさすってやった。お店からグラス一杯分のお水をもらって路地裏まで戻って渡してやった。けれど彼は介抱無用と言わんばかりの態度であった。人に弱みを見せるのが苦手な人間なのだろうと考えてしまった。それが彼との最初の出会いであった。その後飲みの約束を断れらこともあった。「憎き分身」と勝手に彼を嫌煙していた。最初の印象がよくない人ほどのちに仲良くなれると言うジンクスが僕の中にある。だが印象だけではなくて本当にその最初の出会いの時点で「好きじゃない」という第一印象にならなければならない。

そうしてなんの意味もないゼロから始まる友人関係が築いていける。仲のいい友人たちはほぼ全員第一印象が悪かったと言っても過言ではないかもしれない。

相手との関係性を築くのが難しいと感じる近頃。何処かでとまってしまうし。手を握ることができない。互いの利害のもとでしか成り立つことができないものなのだとしたら少し悲しい。

自分が好きな人が少しずつ離れていってしまっているように感じる。実際そんなことはないし実際そんなもんなのかもしれない。互いに求めている深度の違いもあるだろう。その手を強く握りたいと思うことはプラトニックすぎるだろうか。結局相手のエゴに身を寄せることが相手の心をあたたかくすることならば僕らの使命はいったいどうなるのだろうか。


君をつれていくと約束したあの海はいつのまにか町の喫茶店になってしまったのではないのかとその使命を疑ってしまう。

住人たちの目

細かな引っ越しを含めると計12回の移動をしている。たいして大きい荷物なんてないし、こだわった生活用品もないので別にどこでたって暮らせると思っている。だが決してなんだって良い訳ではないので妥協はしない。町々の情緒が好きで建物の外観や人種が豊かな所にとても惹かれる。パリやヴェネチアの様式美、一種のスタイルとも言える堂々とした町構えは魅力的ではあるが僕の町の憧れではない気がする。

 

少なからず多くの町に足を運ぶことを目的とした去年の旅。自分の知らない人や町に意識を奪われた。表面上だったとしてもむしろそれが正解の様に感じられる。そもそも住まないと分からないのことの方が多い世界なのだから当たり前だろうと感じる。その世界の住人たちが君を歓迎してくれるかどうかは分からないが。

忘走

 

忘れたいことのために新しいことでその記憶の上書きをするのが忘れ方の方法だとしたら。本当にその忘れたいいことが忘れていいことだったのかどう判断していいのか見分けがつかなくなる。大抵忘れたい事と言うのは本当には忘れることができなくて深く身体に刻まれていくようにかんじる。だから整理するために文字にのこしたり写真に残していくのではないのだろうか。

 

とりあえず一旦「置く」ことがその忘却の怒りを海面から深い海底へ沈めていってくれそうな気がする。だが一度沈んでしまうとなかな浮上してくるのは難しいのかもしれない。思い出したくても思い出せなくなってしまう方が悲しくはないだろうか。二度と見ることができなくなる自分の気持ちに勢いで別れを告げていいものか。忘れるよりも例え嫌なことでさえしっかり思い出していくこと自棄にならないことが今の僕にはちょうど好い気がする。 忘れてはいけないことが多い今日この頃である。

 

友人に差し入れのクッキーを渡しにいこうと側道を歩いていた。秋の陽射しにとおい空、黄色の銀杏の葉が眩しかった。すると両手を膝について青ざめた顔の男がいた。目は慌てたようすで右へ左へと動いていた。そこから一メートル程さきに小さな黒い塊をみつけた。よく見ると子猫であった。後ろ脚からは血を流していた。男が子猫をひいてしまったのだ。「動物病院へ連れて行くべきか」と男は違う男に尋ねていた。帰り道また同じ道を通ってみるともうそこに子猫はいなかった。

 

放たれた言葉の一言を忘れられない。ボソッ呟いたいた友人の一言が妙に頭に残る。何気ない言葉の端々に自らのアンテナが反応したとしたら、それは過剰なのか。何かの合図なのかそれとも今後の鍵となるものなのか。目尻に皺を寄せて笑う君の顔に、僕らは彼らを見出せるのか。皮を剥ぐまで分からないというのなら、そっと見つめていても何も出てきはしないだろう。

 

果実が落ちるまで何度も枝を揺する。例えすでに果実が落ちていることに気づかなくとも、例え地に落ちた時には崩れてしまっていたとしても。木に登る猿か落ちる果実か。空から眺めているお星さまかもしれない。

 

 

 

あたたかいベット

 
 
 
日曜に特別な思いがある。家族の日、晴れ、遅起き、あたたかな陽ざし、朝食の匂い、映画の音。日曜は特別な日だった。それは両親の唯一の休日であった。朝から映画をみたり、音楽を聴いたり、キラキラしたものがそこにはあった。日常ではなく非日常。部屋の扉越しにきこえる日曜の音はここちよく、例え雨でも雪でも嵐でも日曜を僕の日曜らしくしていた。
 
だが日曜の心の晴れやかさを探すことは大人になるにつれて自分の首を絞めているかのような気分にさせられる。日曜擬演戯。必死に自分の過ごせる曜日をみつけて自分のものにしようとすること。日々を過ごしていくなかでなにかと意味にのしかかり生活をしていかないとこの地では生きてゆけないのか。毎日が確定されているようでまた確定されていない。居酒屋の水槽の中、端に向かって泳ぐ魚。もしかして水槽に入れられる前から網の中で養殖された魚だったのかもしれないと。誰かが教えてくれるわけではない。
 
 
失くしたものたちの追求の旅。予めないもの、当たり前にそこにある感覚とは別にもとからないもの。そこには何があって何がなっかたのか。みな全てを持ち生まれてくる訳ではない。お金がない、時間がない、人がいない。この辺りはどうもがこうともすぐに手に入る訳ではない。ないものが手に入った時の嬉しさ安心感は大きのではないのか。特に人、父、母、そしてきょうだい。それらは決して手に入れられるものでもないし、選ぶことも不可能に近い。人が近くにいることの身近さは何を産むのか。そしてない者は何を求めてゆくのか。君は何を探しているの?