足りない思い出

先日明治神宮前駅に向かうために新宿三丁目駅に向かいました。改札を通りホームの奥に進むために歩いていたら60歳ちょっと過ぎたくらいの女性に呼び止められました。見た目も可愛らしく、お上品なん感じがしました。育ちは悪くなさそうだし、話し方も綺麗な喋り方でした。嫌な感じもまったくしなし一般的なそれよりは割りかしお上品方のおばさんってところでした。迷ってるのかなと思いました。ですけど話を聞くとどうやら神奈川の自宅に帰るお金がないと。まさかとは思いましたけどお金をかりたいと。見ず知らずのおばさんにお金を貸して欲しいと言われ思わず、笑ってしまいました。何を言ってるんだかそんな単刀直入に言われても困るほどの勢いで思いましたお金を貸して欲しいと言われました。けど貸すって言ったてもう会えないし返してもらえるわけがないのに貸すって一体何をどうしてこんなことを言っているんだろうと。笑ってしまったその後、「皆んなに笑われるのよ。分かってるわ」と言われました。周りには仕事帰りのサラリーマンや女子大生っぽい子やら老若男女。まさかここにいる人の多数に聞いているのかと思うとややこわくなりました。


それで貸さないつもりでいくら借りたいのかききました。「百円かしら、いや千円あったらいいわ」と言われました。流石に千円を見ず知らずの人に貸すわけにはいかないので千円は貸せないと言いました。千円も貸せないのにほかに貸せるお金があるのかと聞かれればどうしようもないんですが千円は絶対に嫌でした。ポケットの中に手を突っ込んで探してみると五百円玉が一枚入っていました。


悔しくてため息が出ました。大抵は五百円なら嬉しいはずなのに、その時は百円なら良かったなと思いました。「ちぇっ」百円かよじゃなくて「げっ」五百円かよ。という感じでした。


仕方なく五百円を貸すことにしました。人差し指と親指で差し出した五百円玉はいつもより重く、いつもより輝いてみえました。


 

蛇と牛

蛇が出てくる夢をみた。それは何回めだろうか。黒く長い巨大な大蛇がそこら中にいて部屋の中にもいてのたうち回っていた。怖いはずなのにみんななんだか笑いながらその蛇を捕まえようとしていた。
 
 
その時はバスの後部座席に乗っていた左側の窓側の席だったと思う。窓からのぞめる風景は赤く夕焼けに染まっていた。小さい子を背をってこちらに手を振る母子がいた。後ろからバイクと共に牛が走ってきていた。そして踏切の前でとまった。牛と持ち主とをつなぐ紐が一本の電柱にからまってバイクは先に行くが牛はそこから動けずにいた。そこに電車がきてしまった。咄嗟に手に持っていた本で顔を覆ったが額に生温かい血を浴びた。
 

早い春、熟れた実


ひと足先にと桜の開花が早い今年はいったい何が起きるのだろうか。こんなに早い世の中なのに季節の巡りも忙しいとなると私だけ置いてきぼりになってしまいそうだ。と書いた冒頭に東京の空からは既にピンクの色はちってしまった。


わかっているのに分からないふりを、知っているのに知らないふりを得たことにたいする負荷。自分で嵌めた足枷のように。そういうことばかり気にってしまうお年頃なのか。それともそれはわたしの性分か。知ってしまったことを何気なく聞いてしまうのは悪いところ。しれっと相手の飲み物に、食べ物に少量の毒をいれるみたいに。けどそうゆうことしている自分が一番毒されていくきがして逆に殺されてる気がする。知らないことがいい時もあるけれど知らないのはずるいから。大人ならきっと時間をかければ分かる時がくるはず。



野郎翫びは散りける花の下に眠る狼のごとし

 

遠くの舞台

事には「勢い」ってのがかかせない時が多々あるはずだ。じっくり考えるのは後でもいい。やってから考えればいいのだから。やらなかった後悔よりやった後悔の方が経験にもなるわけだし。特に若い時なんて何をやっても経験になるし物事を始めるのに遅い事はないのだから。そう思うと今の自分には勢いが足りない気もする。だって始める前に考えてしまうから。町を歩いていて写真を撮るときだけその感覚が薄まる。シャッタをー押すそれだけ完結する気持ちよさは何にもかえられない。
 
3人暮らしを初めたのもう二ヶ月も前の事になる。最初は楽しい新しい家に新しい環境、新しい仕事、新しい人。全てが新鮮で搾りたて。濁すものもない。透き通った熱々のスープには湯気が立ち込めている。煮込むとどうなるかが問題である。灰汁がでる。それをどうとるかも、僕らの関係性はいつも進化していく。それは僕と君とも全ての人の中に小さなハンドルがあってどう運転するかでカーブを曲がれたり曲がれなかったりする。相手の力に寄り添うことも、逆に少し引いたり、妥協することも必要なのかもしれない。
 
どんなに長く一緒に暮らしていても気にくわない事は沢山あるし、関係が長いからこそ歯を食いしばれなくなる。だから苛ついたことや怒りそうなことがある時は面白いと心の中で呟けば大抵の事は映画や小説のシークエンスになる。くすっと笑えるコメディのようにね。
 
 
怒らない、いじけないって言う目標を立てているのだけれど中々難しい。怒らない為に黙っていると「機嫌が悪いのか」と言われたりイジケていると見られたりするから。そんなように見られたくないから。終始あっけらかんでいる事と奥歯を噛みしめる事が鍵になってくるように思う。自分で言ううのも何だが意外とみんな気分屋でそうゆう様なものを眺めるのも悪くないと思った。高いタワーにある望遠鏡で目下の街を眺めた時小さくなった人の動きだけを見ている感覚に近い気がする。勝手にあてレコしちゃうみたいにね。
 
そっと心の中で相手の気持ちの脚本を書いたりね。
 
 

02/19/2015

2/19

西門町にやって来たて感じたこと、台湾の原宿と言われてるらしいがそれ以上に活気があり人がおおく。日本以上の熱量がある。風の匂いもどこか、香辛料や食べ物の匂い、御線香の香り、全て入り混じり、暖かな風にのっている。人々はお客に気を使うと言うよりも、当たり前だか全てが彼ら軸の回転であり、その回転と回転が混じりあい、色々なところに渦をなしている。正月特有なのかもしれないが。
 
2/20
台北2日目、フランスの女の子と観光しをした。旅の醍醐味として他の国の人と仲良くなると言うことがある。完全に彼女の渦に飲まれながらも楽しく観光地を回れた。観光地はあまり好きではない。観光地でしかないからかもしれないし、そこに現地の人はいないも同じ。
街全体のもつ喧騒と言うよりも、地を蹴り起こる砂埃のように霞んでみえなくなってしまう感じかした。違うわけではないが本質が本質を形成するものとは別の何かがある。これもまた渦であるきもする。
 
2/23
電車の中で最終駅に向かう途中、高校生位の若い子がいた。年配の方に席を譲る。日本でもある風景だが帰り際にお礼を言うなど温かい風景がみえた。家族連れ、友達などみんな賑やかに笑い会話をしている。彼らはより温かく家族を思いやっていて良いなと感じた。日本にはない温かさ活気がある。人々が温かい風を吹かせている。生温いその風は渦をまき、渦と渦とが触れ合った瞬間火の粉が舞い上がり後に煙が立ち、辺りを霞ませる。その霞はゆっくりとその風に溶け込んでいっている。
 
当たり前なのだけれど彼らは何処かに帰る、けれど薄い霧から濃い霧へと吸い込まれてくように静かに彼らはいってしまう。戻る、帰るとゆう表現よりいってしまう、アウェイ 。流れ続けるそれは、何処かにいってしまうようで。喧騒が静寂へとなる瞬間が確かにそこにはあった。深い霧へと帰っていく。
 
その温かいその風は人を豊たかにする。遠くから爆竹の弾ける音が聞こえてくる。花火の音が聞こる。旧正月最後の日の夜、爆竹の音が雨を誘ったかのように沢山の雨が降った。爆竹で旧正月を祝うのと同じく、雨も最後の締めくくりとして盛大に音を鳴らした。ずっと続いていた。昼頃目をさますと空は輝き、昨日までの霞は何処かへ流れてしまったかのように思えた。街には人が溢れ、閉まっている店も顔をみせ、学生が街を歩き、会社員がタバコを吸い、彼らの生活が始まっていた。
 
 

ランプ

陰りのある顔や、ほんの少しの微笑みなど不意に目にとまる表情の方がしっかりとした表情より説得力があるのかもしれない。悲しそうな伏せ目や戸惑う目の漂いに嬉しさを隠していたり。そういう表情を集めて他人の感情や気持ちを読み取ろうとすることは悪しくも相手からの察しを受け入れていることになるのか。察し背中を撫でてあげることが優しさとは限らない。春の嵐のように強く吹き飛ばしてあげることも必要だろう。寒さに感謝する事はあまりない。あたたかさに雨音にしっとりとした街並みをいく人々の足音にも小さな春がきているに違いない。
 
 
忘れないように書き留め、忘れないように写真を撮って心を亡くさないように生きるには多少やる事が多すぎるかもしれない。家にあった木の名前とか親戚の年齢だとか、弟の彼女の名前だとか、前住んでいた家の郵便番号だとか覚えなければならない事が多すぎる気がする。中学の同級生の名字なんかもあまり覚えていない。松田、馬場、郡司、翼の名字は忘れてしまった。佐々木に織田、日下部、柏原、成田に山川、荒井。 双子の姉妹の名字は相川だか相楽だか。陣内もいた気がする。
 
海辺でシーグラスを集めたのは覚えている。それでランプも作った。
拾い集めた物の中に灯りが宿る。
 

雪どけの春先と言ったところか、寒いのには変わりないその雪の下にいる熱い土。はっきりとは見えない磨り硝子の向こう側であり、飛行機の窓から見える小さな町の灯。正体をつかむにはあまりにも握り難く、掴むべきではない。触れることの出来ない煙の様で触ったらオモシロクナイ。掴もうと必死になるのも馬鹿げている。中間地点、そこにあるのにない。見えているのに見えていない。物事の輪郭とが互いに融けあい境界線を紫の霧がおおう。しっかりそこに存在しているのにそこだけがが切り取られている。真心と下心がひとつの舟に乗っているそんなような奴なんだと思う。