時点道中膝栗毛

 
恵比寿で高校時代唯一の男友達と久しぶりに会った。定期的に会っているのだが、いつも昔と変わらない感じで接してくるから会って最初の一時間位どぎまぎしてしまう。だがそこにはブレザーを着た高校生の僕ら二人が見える。それは昔と変わらないと言う事ではなく、大人になってきた僕らが思い出せる匂い、昔を装う姿なのかもしれない。変わらないのではない。友の変化を恐れない互いの薄情さかもしれない。決して冷めているわけではない。気にしすぎない適度な付き合い、執着しないから断念しない。僕らは毎回近況報告と抱負を語り煙草をのんでいる。そして彼はとも帰りたがりなので夜更かしはしない、酒もさほど強くないのでコンディションと決意がないと僕の夜行生活には付いてこれないであろう。今年の年末には激しく飲みたいと彼なりの野望を語っていたので、ある程度の心持ちを期待している。
 
そんな彼が食事中「これから80歳まで生きれるとして、お前は毎秒その場で一緒にいる奴に殺されているんだ」と言ってきた。そう考えるなら彼に僕の寿命を殺されていても別に構わないと思ったし、どれだけの人に殺されて殺したかが分からない。時は金ではなく命という事であろうか。彼曰く一緒にいる人間や仕事での時間を無駄にしたくないということだった気がする。
 
老いると時間の流れが早く感じるという、実際僕も以前より時間の経過を早く感じる。けれど川のように上から下へ流れていってしまう時間ではなく、一つの大きな丸い流動体のように感じる。そう思うとそこには決まった時間などなくて一つの時間の中を彷徨っているんだと思える。大きな卵の中をあるいている。そして夜空に輝く星のようにその時点は存在しているのかもれない。
 
 
そして東京にきて五年が経とうとしている。東京で暮らしている事にそれほど疑問はないし、特別故郷に帰りたいとも思わない。かと言って一生を東京で過ごすのかと言われてもイエス直球の返事はできない。ないものねだりをしているのか、町に愛着はあるものの、都市に憧れを抱く事はないのかもしれない。都市に対する憧れと言っても、憧れる部分はその町の文化や人や食べ物くらいしかない。羨ましいと思うだけもかもしれない。
 
 
この町で骨を埋める覚悟はないし、じゃあ僕の骨は故郷にどこに帰ることになるのか。当然今この時点で死んだら僕の冷たくなった身体は地元に運ばれ火葬され骨になり粉々にされて小さな壺に入れられ近所のお寺のお墓に入ることになるだろう。なんだか死んでも窮屈な思いはしたくない。それに友達も遠いお墓にはお参りに来てくれないだろう。じゃあ海や川へ撒いてやろうかと尋ねられたらとりあえず海がいいかもしれない。けれど散骨は大変だろう。散骨と聞くと崖から撒いた粉末状の骨が風にあおられ撒いた人に吹き返ってきて真っ白になってしまうという映画のワンシーンがいつも頭の中をよぎる。船も風が強そうだし船酔も心配だ。とりあえず死後の骨の処理よりもどうやって今を生きていくかを考えたい。