あたたかいベット

 
 
 
日曜に特別な思いがある。家族の日、晴れ、遅起き、あたたかな陽ざし、朝食の匂い、映画の音。日曜は特別な日だった。それは両親の唯一の休日であった。朝から映画をみたり、音楽を聴いたり、キラキラしたものがそこにはあった。日常ではなく非日常。部屋の扉越しにきこえる日曜の音はここちよく、例え雨でも雪でも嵐でも日曜を僕の日曜らしくしていた。
 
だが日曜の心の晴れやかさを探すことは大人になるにつれて自分の首を絞めているかのような気分にさせられる。日曜擬演戯。必死に自分の過ごせる曜日をみつけて自分のものにしようとすること。日々を過ごしていくなかでなにかと意味にのしかかり生活をしていかないとこの地では生きてゆけないのか。毎日が確定されているようでまた確定されていない。居酒屋の水槽の中、端に向かって泳ぐ魚。もしかして水槽に入れられる前から網の中で養殖された魚だったのかもしれないと。誰かが教えてくれるわけではない。
 
 
失くしたものたちの追求の旅。予めないもの、当たり前にそこにある感覚とは別にもとからないもの。そこには何があって何がなっかたのか。みな全てを持ち生まれてくる訳ではない。お金がない、時間がない、人がいない。この辺りはどうもがこうともすぐに手に入る訳ではない。ないものが手に入った時の嬉しさ安心感は大きのではないのか。特に人、父、母、そしてきょうだい。それらは決して手に入れられるものでもないし、選ぶことも不可能に近い。人が近くにいることの身近さは何を産むのか。そしてない者は何を求めてゆくのか。君は何を探しているの?