忘走

 

忘れたいことのために新しいことでその記憶の上書きをするのが忘れ方の方法だとしたら。本当にその忘れたいいことが忘れていいことだったのかどう判断していいのか見分けがつかなくなる。大抵忘れたい事と言うのは本当には忘れることができなくて深く身体に刻まれていくようにかんじる。だから整理するために文字にのこしたり写真に残していくのではないのだろうか。

 

とりあえず一旦「置く」ことがその忘却の怒りを海面から深い海底へ沈めていってくれそうな気がする。だが一度沈んでしまうとなかな浮上してくるのは難しいのかもしれない。思い出したくても思い出せなくなってしまう方が悲しくはないだろうか。二度と見ることができなくなる自分の気持ちに勢いで別れを告げていいものか。忘れるよりも例え嫌なことでさえしっかり思い出していくこと自棄にならないことが今の僕にはちょうど好い気がする。 忘れてはいけないことが多い今日この頃である。

 

友人に差し入れのクッキーを渡しにいこうと側道を歩いていた。秋の陽射しにとおい空、黄色の銀杏の葉が眩しかった。すると両手を膝について青ざめた顔の男がいた。目は慌てたようすで右へ左へと動いていた。そこから一メートル程さきに小さな黒い塊をみつけた。よく見ると子猫であった。後ろ脚からは血を流していた。男が子猫をひいてしまったのだ。「動物病院へ連れて行くべきか」と男は違う男に尋ねていた。帰り道また同じ道を通ってみるともうそこに子猫はいなかった。

 

放たれた言葉の一言を忘れられない。ボソッ呟いたいた友人の一言が妙に頭に残る。何気ない言葉の端々に自らのアンテナが反応したとしたら、それは過剰なのか。何かの合図なのかそれとも今後の鍵となるものなのか。目尻に皺を寄せて笑う君の顔に、僕らは彼らを見出せるのか。皮を剥ぐまで分からないというのなら、そっと見つめていても何も出てきはしないだろう。

 

果実が落ちるまで何度も枝を揺する。例えすでに果実が落ちていることに気づかなくとも、例え地に落ちた時には崩れてしまっていたとしても。木に登る猿か落ちる果実か。空から眺めているお星さまかもしれない。