ゆずれない事が頑固の始まりになる。それは良い引き金になる場合もあれば悪い引き金になる場合もある。僕の場合大抵は後者になる。良かれと思いしたことでバランスが崩れ相手を消沈させてしまう。例えばあいまいな約束を守れなかったりする(主に時間だが)。「この位なら大丈夫だ」と思ったことでズレが大きな溝となり相手を怒らせてしまったり、勝手に相手を信頼してしまい相手との綱の弱さが明白になったりすることもある。自分が強く引きすぎれば相手が引きずられその綱は傷んでしまう。
 
だかその前に「何かあった」と言うことを知ってほしいと思うことはきっとわがままなのだろう。自分の都合である。特にこれこれがあってという様な理由も伝える勇気がない僕は黙ったままの冷たい氷柱である。触れるときには尖った槍のように相手に刺さってしまうのだ。何故言えないのかは分からない。それはきっと言い訳と捉えられるからでもあるし、昔から言い訳をしてきたからだろう。またこうやって言葉にするのも言い訳の一種なのだから。自分を守るために必死なのか。器の小さな男だなと我ながら思う。
 
 
「為に」というのもだらしの無いことだ。それは期待であり、欲望である気がする。為にと言う様な何も見返りを望まない行動がなかなか無いように。例えばエレベーターで開くのボタンを押し続け、階数を聞きボタンを押し、先に他の乗員をおろし自分は一番最後に降りたとしよう。すると僕らは礼儀として感謝の言葉を少なくとも聞きたがるだろう。「ありがとう」の一言を。それは期待だ。
 
そしてそれは肥大化する。関係が深くなればなるほど当たり前になることの中で特別な期待を産むのだ。それは当たり前を喰い散らかし惨めな期待になってしまうのである。
 
まさに「為に」とは期待への餌の一つなのだ。だから期待しない。為にと思わない。それが僕らの麻痺した喝采を再び蘇らせてくれるはずだから。そして決して忘れてはいけないのが許し。
 
いけない事への許しではなく、こんな僕を許してほしいと期待する日々である。これもまた言い訳なのかもしれない。そして誰が為にと言うならばそれは僕らが為にと答えたい。