一通目

 
拝啓◯◯様
 
この度この様にしてお手紙をかくのはあなた様からの提案からでした。
もらった手紙に対してこんな形でお手紙の返信を書くことはいいのでしょうか。まだ僕には分かりません。
そもそも手紙というのは秘密にしておきたいこと、あるいは知らせたいこと、文字を書くという行為の熱心さを直に感ずることのできる最良の手段であるのではないかと思うのです。あくまで私の中の手紙の話ですが。私の中で手紙は神聖なものになってきています。だから言葉使いや、人が変わった様な言い方になってしまうのでしょうか。それとも本当の自分はこの言葉の中に宿っているのでしょうか。話す形とは違うこの語りべのような形式が少し癖になりそうです。
 
最近の悩みを相談させてください。それは写真とその他の比重です。お金を稼ぐこと、恋をすること。写真以外に私が問題視しているのはこの二つくらいです。先ず恋をすること。恋をすることは私たちにとってすごく大切なことであると中学の妹が教えてくれました。だけれどあんまり私は乗り気じゃありません。なぜなんでしょうか。映画や小説のように激しく誰かを愛することがおそろしく感じてしまいます。写真に身が入らなくなってしまうのではないかと。甘えに甘えて腐って落ちる自分の姿が少し見えてしまいます。次にお金を稼ぐこと。最近はあればあるだけ損はしないと考えています。確かに自分のやりたいことでお金が稼げることはいいことですね。行きたい所にいけてやりたいことがやれて、不自由なく暮らしたいと日々願ってしまいます。結局のところ自分のなかには答えがあるのにも関わらず、その答えを自分で認めることができない。決断が出来ないことに悩まされています。私が求めている私はどこに行こうと私であることにかわりはないのに。今の現状が好きではないし、何も好きじゃなくなりそうです。
 
いつも自分の中で三つの選択肢があります。基本一つ目の選択肢を選んでいます。ですが二と三の選択肢が濃厚になり自分の中で驚きを隠せません。大人になった証でしょうか。より堅実な方に流れてしまっています。他人から言わせたら全く非現実的なんでしょう。頑固な私は貫きたいとその貫くことに頑固になって自分の意志とは全く別の存在をつくってしまいがちです。
 
 
会話の時の言葉より文字に残した時の言葉の方がより責任が大きくなるのでこれ以上は次の喫茶店でお話します。
 
 
先日、東京では久しぶりに雨が降りました。ですが久しぶりの雨に心躍らせる私たちはいつまでその雨を喜び続けることができるのでしょか。
 
 
 
 
拝啓◯◯様
 
すべての事が気になりすぎてしまう。友人の声色目線。もしかして本当は僕の事が嫌いでただ調子を合わせてくれているだけなのかもしれない。結局みんな自分のことは何も教えてくれなくて僕だけが話続けてきっと馬鹿にされている。雄弁は銀、沈黙は金と言われるから僕はきっと銀。僕の周りはみんな「そうだね、そうだね」って話を聞いてくれる人ばかりで余計こわくなる。きっと誰も話を聞いてはくれてなくて訳のわからない事ばかりを話している僕への「慰めの頷き」なんだろうって思ってしまう。だって実際僕の話す言葉には何の意味もないから。きっと喉で話をしているからだろう。たとえば話さないとする、そうすると「怒っているのか」と聞かれるが決して怒ってなどいないし、ただ観察しているだけだ。すべての記号に意味があると感じてしまうこの脅迫をどうにかしたい。
 
目を瞑って生活するにはこの町は生きにくい。